加藤清正の成功と失敗

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こちら、完成間近になっています。
大田区の池上本門寺に建設されている、
「加藤清正公堂」ですが、
昨年の生誕460年を記念して建立されたもの。

このお寺には五重塔もありますが、
こちらも完成したら見事な三重塔になりそうです。

なぜ、東京の日蓮宗のお寺に、
九州の大名だった加藤清正のお寺があるのか?

それは熱心な日蓮宗の信者で、
このお寺の建立に関わっているからなんですね。
後に紀州徳川家の祖になる徳川頼宣の妻となった娘、
八十姫のお墓もここにある。

天下の名城、熊本城のみならず、
皇居内や港区の「清正公」など、
たくさんの建造物を残している加藤清正。

武将としても秀吉配下の武将として
一、二の強さを競い、
朝鮮出兵では活躍し、
「虎退治」のエピソードも残しています。

なのに、戦国時代の物語で、
この人を主役にしたものというのは、
ほとんどないように思います。

今の大河ドラマにも出ていますが、
要するに家康側と秀頼側を行ったり来たりしながら、
どちらかも信頼を得ることができない。

豊臣秀吉が親同然だったにも関わらず、
石田三成を認めることができず、
結局は元の主君を裏切って、
関ヶ原では徳川に着く……。

こんな態度に、なかなか私たちは
共感できないわけです。
なんか格好悪く思えてしまう。

最終的には部下同士の対立を抑えられず、
50歳の若さで死去したのち、
藩は取り潰しになってしまう。
(暗殺説もあります)
仕事ができるだけに、徳川氏からは
警戒もされていたんですね。

熊本城は、西南戦争時に攻略しようとした
西郷隆盛が感心したくらい
優れた防御機能を持った城。
よく言われるのは、壁にカンピョウが埋め込まれ、
畳にサトイモの繊維が使われ、
いざというときに「城が食べられる」
作りになっていたとか。

しかも建築時には労働者に福利厚生を与え、
珍しくホワイトな戦国武将でもあったとか。
この方の建てたものに後世まで残るものが多いのは、
そんなマネジメントの妙も効いていたのかもしれません。

でも、人間関係には、まったく不器用だった……。
それが結局は、不幸を招いているのですね。

仕事ができるのはいい、成果をアピールするのはいい。
でも、ときには自分のほうが折れ、
他人の利益にきちんと配慮する。

そうした姿勢がないと、結局は「できるはずの仕事」でも
評価されなくなってしまう。
人への思いには一番、
私たち敏感にならなくてはいけないな……と。

私は大好きな武将であり、
この人の不器用さには同情しますが、
私たちは同じ失敗を避けなければですね。

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