武士道の「忠義」と楠木正成

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久しぶりに取り上げた
夏川訳の新渡戸稲造『武士道』ですが、
5月25日は
楠木正成の命日だったそうです。
(新暦では7月)

その死は『太平記』における
「湊川の戦い」で、
後醍醐天皇に忠誠を誓い、
反旗を翻した足利尊氏の軍と戦って
敗れたことによります。

追い詰められた正成は弟の正季と、
十倍以上の敵軍に対して16回の突撃を行ない、
最後は互いに刺し合って
自害を果たしました。

その壮絶な献身をもって、
明治時代には
忠義の武士の見本とされ、
皇居前にも銅像が作られています。

明治時代に執筆された
『武士道』では、あえて新渡戸稲造さんは、
彼のことをあえて書いていません。

ただ、正成が何より
「忠義の武士」の見本だったのは、
『武士道』のこんな記述によります。

「臣下のとるべき忠義の道は、あらゆる手段
を講じて主君の誤りを説得することでした」

そう、じつは正成は、
武士を軽んじていた後醍醐天皇の考えに
全面的に賛成していたわけではありません。

鎌倉幕府が滅んだのち、
武士の不満を受けて足利尊氏は挙兵したのですが、
その言い分も正成はよくわかっていた。

だから、
「かつて幕府軍と戦ったときは、多くの侍が集まりました。
民の心は天皇と通じていたのです。
しかし今回は、誰もこの正成に従いません」
と、天皇に手紙を送ったうえ、
無謀な戦いに打って出たわけです。

戦力差を考えれば、
おそらく自分は敗北して死ぬことになるだろう。
それでも天皇が自らの失敗を悟り、
争いを止めることを選択してもらえばと
考えたんですね。

新渡戸さんが説く『武士道』の「忠義」とは、
完全に服従してイエスマンになることではない。
武士の世界でも、
命を賭けてでも主君の間違えを正すことが
臣下の務めとされ、
処罰されることを覚悟してそれを行なった武士は、
過去にも大勢いました。

「押し込め」というやり方で、主君を監禁したり。
あるいは城を乗っ取ったり、
さらには切腹をもって抗議したり。
方法もさまざま。

イエスマンで周りを囲んだら、
結局は組織が弱体してしまう。
忠義という言葉の意味を、間違えてはいけません。

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