【歴史入門】小国が大国といかに戦うか

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9月12日は、「マラソンの日」だそうです。
いろんなところでマラソン大会や
運動会が催されるそうですから、
参加される方もいるかもしれませんね。

なぜ「マラソンの日」かといえば、
およそ2500年前という遠い昔の今日、
ギリシャで「マラトンの戦い」が起こったからです。

すぐにアテネに戦勝を報告するため、
伝令が42.195キロを走ったのは有名な話ですね。
その伝承からマラソン競技が生まれました。

昨日に報告しましたが
9月に私がお届けするのは古典
戦争論』の超約版
その解説のため、古今東西の戦争の事例を
数多く集めています。

走った事例ばかりが有名な
「マラトンの戦い」ですが、
じつはそれ以上に過去の戦争において
弱い国が強い国に対して、
戦術的にうまく戦って勝った絶好の例なんですね。

紀元前490年、ギリシャ侵略に動いたのは、
現在のイランにあった
「アケメネス朝ペルシャ帝国」です。
トルコやシリアを統合し、
地中海までに広がります。

当時、ギリシャは地中海交易で繁盛していましたが、
中心都市のアテネとスパルタは、
つねに仲違いしています。

ならばどっちかを落とせば、
地中海の制海権も握れるだろう……ということで、
アテネの中継港があった
マラトンの港を狙ったわけです。

ペルシャの攻撃軍はおよそ2万、
対するアテネは1万に満たない数。
圧倒的劣勢ですが、
ペルシャも当時は都市国家に過ぎなかったアテネを
なめていたんでしょう。
必要最低限の軍にとどめました。

この情報を掴んだアテネの将軍は、
上陸してくる大量の兵に向かって
全軍を駆け足で突撃させ、
距離を一気につめたわけです。

おかげでペルシャ軍は自慢の弓兵部隊を使えず、
背水の陣のような状態で、
ギリシャの重装備歩兵を
各個撃破するしかなくなった。
思い鎧をつけた鈍重な兵のパワーを
ギリシャは生かしたんですね。

クラウゼヴィッツ『戦争論』では、
「防御側有利」の原則が、
一貫して説かれています。

守る側はつねに戦い方を選べるし、
地形の優位も生かせる。
だからペルシャが失った兵は、6000人以上、
対するアテネは190人ほどの死者で
最強の軍勢を退けたわけです。

伝令はアテネに着くと同時に息たえた
……と言われますが、
なるほど急いで祖国に伝えたかったのも
うなずけるかもしれません。

その後、アテネは敵だったスパルタと結び、
ペルシャを完全に負かすことにも成功しました。

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