山東京伝と滝沢馬琴

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昨日は江戸の版元経営者、
蔦屋重三郎さんのことを紹介しました。

そこでついでに、彼と関わった
2人の江戸作家のことも紹介します。
それは山東京伝さんと、滝沢馬琴さん。

画像は両国の「回向院」ですが、
ここには山東京伝さんが眠っています。

じつはこの2人の関係が変わっていて、
馬琴さんは東京伝さんに弟子入りしようとした人、
でも、東京伝さんは断りました。

ところが東京伝さんは、
「弟子は取らないけど、何か相談事があれば、
いつでも来ていいよ」と、
馬琴さんに出入りを許します。

以後、2人は長く友人として関わり合い、
結果、馬琴さんは『南総里見八犬伝』で知られる
江戸を代表する作家の1人になっていくんですね。

でも、どうしてそんな間柄になったのか?

この2人は、生き方がまるで
水と油のように異なっていました。

山東京伝さんは非常に器用な人で、
文筆家であるとともに、絵画も得意。
そこでイラスト本のような作風で
大ヒットを飛ばします。

まあ、ほとんど吉原に入り浸っていたので、
内容は「大人向け」かもしれませんね。
過激な作風から、
発禁処分も何度も受けたそうです。
一方でビジネスもうまく、
タバコ店などの商売もしていたそうです。

一方で、馬琴さんは、
武士の家に生まれながら作家を目指すほどの一途な人でした。
ですから才能を見抜きながらも山東京伝さんは
「自分の弟子になったら、彼が潰れてしまう」と、
将来を見越したのかもしれませんね。

人間関係のトラブルを避けるため、
今でいう「割り勘」の払い方を
世に定着させたという東京伝さん。
一方で好きになった女郎さんを
最期まで経済援助するほどの優しい人でもありました。

そんな東京伝さんは馬琴さんの縁談まで世話をし、
自分とはまったく違う安定した基盤を作った上で、
作家活動に専念させようとしたわけです。

その一方で、
たまに自分の仕事の代筆もさせていたとか(笑)
ちゃっかりしているけど、そんな友人欲しいかもなぁ……。

不摂生が祟ったのか、
自由人だった東京伝さんは50代で亡くなりますが、
馬琴さんは80代まで作家活動を続け、
江戸を代表する作家となったんですね。

馬琴さんは日本で初めて、
原稿料で生計を立てることができた作家さん
……と言われています。
多くの人の努力がここに結実したのでしょうね。

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