名君は「自然の怖さ」をよく知っている

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まだ本州は梅雨も明けず、微妙な天気が続いています。

東京は比較的、晴れの日が多いのですが、
九州北部や中国地方では、
相変わらず大雨の心配が続いていますね。
該当地域の方は、何かあったらぜひ
早めの避難をお願いします。

このところ、特に九州の北部では、
夏になると毎年のように水害が起こっています。

ただ、別にそれは今に始まったわけではありません。
一貫してこの地方、川が氾濫しやすく、
たびたび洪水なども起こってきました。

だからこそ肥沃な大地とされてきて、
古代から集落も発展してきたのですが、
この地の治水に成功した人物は、
常に「名君」として民衆の支持を集めてきました。

その1人に関ヶ原の合戦のあと、
筑後藩の藩主を務めた
「田中吉政」という大名がいます。

現在の福岡県柳川市を中心とした
比較的小さな藩でしたが、
彼はこの地で「荒れ川」として知られていた
柳川や矢部川の護岸工事を行ない
有明海まで続く「慶長本土居」と呼ばれる
大堤防を築きました。

これによって筑後国は、
一気に豊かになったと言われています。

じつはこの田中吉政という武将、
もともとは豊臣秀吉の甥、秀次に仕えた家臣で、
私も行ったことがあります
「近江八幡」の町の整備に貢献した方なんですね。

私もこの町、行ったことがありますが、
まるでヴェネチアのように水路を張り巡らし、
琵琶湖からの水の制御で栄えた町。
柳川にも、そのときのノウハウが
ちゃんと生かされているんですね。

ご存じのように、秀次は秀吉に息子ができたあと、
権力の座から追われ、自害することになります。

このとき吉政も切腹しようとするのですが、
秀吉はよく秀次に仕えた彼を尊重し、
岡崎城の城主にするんですね。

その後、主君の仇を果たすためか、
吉政は「関ヶ原の戦い」で
家康側に付くことになりますが、
最後は逃亡した石田三成を捕らえる功績をあげます。

三成も「他の者に捕らえられるなら、
お前の勲功に役に立とう」と、
わざわざ彼の軍に投降したとされます。

その後、家康から筑後の国を与えられて
一国の主人となるのですが、
人への信義を貫き、
やるべきことを真剣に実行する姿勢が、
敵や味方を問わず、
どんな勢力にも評価された結果なわけですね。

残念ながら、キリシタンを保護したことが原因か、
筑後田中氏は、次代で改易させられることには
なりました。

それでも残した功績は、
今も町の人々の安全に寄与しているわけですね。

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