考えてほしい「著作権」の意味

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7月22日は、
「著作権の日」なのだそうです。

文明開化の後、明治も32年となった
1899年のことですが、
福沢諭吉らの尽力で、やっと日本にも
著作権制度が成立しました。

それからおよそ120年、
この制度があるからこそ、
なんとか私は生きていけています。

つまり、自分の著書であっても
翻訳や現代語訳であっても、
あるいはライティングや編集で協力をした本でも、
1つの著作物の利益の一部を
「著作権」として保有できる制度になって
いるわけです。

お陰様で、私が携わった本で
著作権が認められていれば、
重版はもちろん、文庫になっても、
簡略版になっても、電子書籍になっても、
その利益の一部が「権利」として入ってくる。

その継続的な利益があるから、
1冊の本を書いたときの利益が少なくても
何とかやっていけるわけですね。

ところが現在、この「著作権」が、
非常に曖昧なものになりつつあります。

何より本が売れない時代になりました。
人から人へ、著作権の枠外にある
転売のマーケットが主流となり、
また本に代わって成立している電子書籍も、
単価が非常に安く設定されることが多くなっています。

するともう「著作権」による収入では
生きていけなくなってくるんですね。
半分どころか、私の収入も全盛期の
1/3とか1/4になっている。

するともう「著作権」は最初から手放し、
「原稿料」という形で、
最初から一定の利益をいただくしかありません。

どうせ原稿料なら、安いほうがいいということで、
プロの「作家」に頼むなら、
ネット上の業者でもいい。
しかも最近は AIに文章を書かせることも
可能になってきた……。

よっぽど売れない限り、
「作家」という仕事の人間は
厳しい時代になっているわけです。

じつは西洋で「著作権」という概念が生まれたのは、
15世紀のことだとか。

つまり、グーテンベルグが印刷術を発明したころから、
「書き手の権利を守ろう」という動きは、
すでに起こっていたわけです。

日本ではずっと鈍感だった……。
とはいえ、武家や商人がサロンを作る形で
作家業を営む人々を保護したり、
読者たちが今でいうセミナー教室を開催することで、
書き手を助けるような文化もありました。
松尾芭蕉や吉田松陰などは、
そういう文化があったこそ出てきたわけです。

ところが現在は、著作者の立場度外視で、
ネットサイトやAIサイトが作られていくし、
著者物の販売方法も変化していっています。

インボイス制度だったり、さまざまな税金の制度も、
私たちのように時間をかけて1つの創作物を作る人間の
立場を考えていない。

私が生きられるかどうかはともかく、
このままでは日本の文化自体が、
危うくなっていくような気もします。

せめてこんな日には、
文章を書いてくれる人のことを考えてみようよ……。
そうなってくれるといいですね!

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