討ち入りは「復讐」でなく「名誉回復」

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12月14日といえば、
日本史において「武士道」を象徴する
大事件が起こった日です。
そう、「討ち入り」ですね。

旧暦ですが今から320年前の12月14日、
播磨赤穂藩の47人が江戸の吉良邸を奇襲。
吉良上野介を倒すことで、
切腹した藩主、
浅野内匠頭の仇を討ったわけです。

画像は歌川国貞作
「仮名手本忠臣蔵」よりになります。

誤解されるのですが、この「仇討ち」という行為。
決して「復讐」ではありません。
今もこの事件が英雄譚として語られるのは、
「名誉回復」の意味を持っていたからです。

実際、浅野内匠頭が
それだけ「部下に愛されていた」なんていう記録は
どこにもありません。
むしろわがままで問題のある君主だったらしい。

何があったかはわかりませんが、
場内で刀を抜き、
吉良氏に切り掛かった浅野氏に
お上はレッドカードを出したわけですね。

当然ながら城主たるもの、
挑発に簡単に乗ってはいけない。
だいたい実際のところ
浅野内匠頭のほうが先輩だったらしいし。

しかし、この事件は家臣たちにとっては大問題です。
このままだと問題を起こした大名の藩ということで、
取り潰しになるかもしれない。
実際、その動きも始まっています。

ですから、
「うちの藩主は悪くない」
「相手が悪かったんだ」
という理屈を立てるためには、名誉回復のために
「家臣が主君のために命をかける」
という行為が必要だったわけです。

吉良氏側から見たら
「とんでもないこと」かもしれませんが、
これが長く続いてきた武士の理屈。
吉良氏の側は、まあ平和ボケというか
警戒心が足りなかったかもしれませんね。

裁定では討ち入りは「復讐」とみなされ、
一同切腹ということになります。
それでも赤穂藩の存続は叶いましたから、
彼らの名誉は尊重されることになったわけです。
死をもって彼らは、一応の目的を達成しました。

少なくとも現代では、
もっとたくさんの選択肢があるのだろう。
ただ、それくらいの覚悟をもって
自分のやるべきことを果たして人間たちがいたことは
覚えておきたいですね。

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