暴力を行使する人間の覚悟と責任

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画像、『戦争論』とともに並べているのは、
読書ブログを運営している
曹深山さん、という方。
(たぶん日本人と思いますが)

じつは先日、『超約版・戦争論』をブログで
紹介いただきました。
こちら

そのお知らせでいただいたのですが、
「元気ならなんとなる」というメッセージ、
いいですよね(笑)

そんな、曹深山さんが述べているのは、
「たとえそれが正義の戦いであっても、暴力性を無視してはいけない」
ということです。

考えてみれば、クラウゼヴィッツの『戦争論』。
戦争を仕事にしていた軍人が書いた著書ですが、
真っ先に言っているのは、次のようなことです。

「戦争とは言ってしまえば、
『ケンカ』以外のなにものでもない」

すなわち、どんな言い訳をしたところで、
そこに存在するのは確実に「暴力」であること。

政治は戦争の大義について
いろんなことを言うだろうが、
われわれ軍に携わる人間が行なうのは
確実に「暴力」である。
守るべき同胞のためではあっても、
その手を血で染め、
1人の人間である敵を殺すために力を振るう。
その本質を決して忘れてはならない……と。

少し自虐的ではあるのですが、
まず読む人間は、
これが「暴力」について書かれた本であることを
心して読んでくれというわけです。

逆にいえば、
「平和のための暴力であれば正しい」なんて考える人には、
本を読む資格はない。
自分がする行為に対し
覚悟をもって臨むのが、戦争の必然である、
ということになります。

そんな話をしたのは、
自衛官の訓練中での悲劇がありました。
そうでなくても、自衛隊内での不祥事は、
このところ続いていますね。

平和な時代が続く一方で、
自衛官を主人公にする漫画やアニメも多い。
また、ウクライナの戦争以後、
侵略に対して戦う国民たちに対し、
私たちが一種の「格好よさ」を感じることも事実でしょう。

でも、実際。その手を血で染める人々は、
その覚悟をもって心を鬼にして戦ってもいるわけです。
このことを忘れると、軍や自衛官の誇りにも、
それに対する私たちのリスペクトも
揺らいでしまいますね。

にしてもクラウゼヴィッツは、
今よりずっと戦争が「当たり前」で、
国家による暴力が公然となされていた18世紀の人。
そんな方が、この大前提に立てたのは、
実はすごいことだったんだなと改めて思います。

本が「名著」となった理由は、この点にあるのでしょう。

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