【歴史入門】決闘なんて、格好いいことじゃない

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「千日の稽古をもって鍛となし、
万日の稽古をもって錬となす」

こちらは宮本武蔵の有名な言葉ですが、
4月13日というのは、旧暦ではありますが
「巌流島の決闘」が
行なわれたとされる日だとのこと。

つまり、佐々木小次郎と関門海峡の小島で、
伝説的な決闘が行なわれた日ということですね。
時は1612年のこと。
吉川英治さんの『宮本武蔵』のほか、
数々の物語によって語られる
最も有名な侍同士の決闘になります。

ただ、この決闘、かなり不明な点も多いんです。

著書も残している宮本武蔵さんでありながら、
武勇伝であるはずの、
この決闘のことは何も語っていない。
「佐々木小次郎」が何者なのかもハッキリしないし、
「佐々木」という苗字は、ほぼ100パーセント創作らしい。

ただ資料によると、
ともに細川家小倉藩で剣を指南していた師範2人が
「どっちが強いんだ」ということで
争いごとになる事件はあったらしい。

さまざまな検証では「巌流島の決闘」について、
次のような「本当はこうだったのではないか説」があります。

・決闘時、佐々木小次郎は、すでに70歳に近い老人だった
・宮本武蔵は決して、遅刻などはしていなかった
・ただ宮本武蔵は、弟子たち数人を連れて決闘に臨み、
大勢で佐々木小次郎をボコボコにした
・最後は気絶した佐々木小次郎に武蔵がとどめを刺した、
あるいは起きたのを弟子が気づき殺害した
・武蔵たちは帰り道で小次郎の弟子たちの反撃に遭い、
命からがら逃げ延びた

なんとも冴えない「剣豪同士の決戦」ですが
だから宮本武蔵も
あまり語りたくはなかったのかもしれませんね。

ただ、時期的なことを考えれば、
まだ戦国が終わって間もないころです。
武士として生き残ってきた彼にとって重要なのは、
剣の師匠として技で勝つことより、
降りかかってきた火の粉を払うことだったのでしょう。

のちに有名な『五輪書』を書く宮本武蔵ですが、
その思想の根底にあるのは
「武士として戦う以上は、絶対に勝たねばならない」
ということ。

無様だろうが、卑怯だろうが、
「死んでしまったら使命を果たすことはできない」
ということを、
武蔵は真っ先に主張しているわけです。

その意味で「巌流島の決闘」は、
彼の哲学を作りだす要因になった
重要な事件だったのかもしれませんね。

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